人は週刊の生き物だから
4月9日(木)週刊新潮
古市憲寿氏「誰の味方でもありません」の記事の興味
久しぶりに安倍昭恵さんがニュースに。
花見自粛を求める中で有名人達と私的に「桜を見る会」を開催していたということ。
記事の写真を見る限り、艶やかな桜を背景に笑顔の男女。
「こんな時に自由すぎる」 「立場をわきまえろ」 など批判が殺到したが、僕は少しほっとしてしまった。
なぜなら「こんな時」昭恵さんがいつも通りだったから。
マーセル・セロ-の小説に「まわりのすべてが崩壊してしまったとき、まっすぐ立たせておいてくれるのは
決まった習慣だ」
現代人の日常も習慣の積み重ね。電車での通勤、会社の雑務や同僚への悪口。
しかし有事においては習慣が成立しない。
当たり前のことが非常識に、奇妙と思われていたことが推奨されるようになる。
こんなご時世ではあるが昭恵さんはいつも通りだった。
目立つ行動をする。
メディアやSNSでバッシング。
夫が国会で釈明。
一連の流れまで完全に一緒。
当たり前が壊れていく時代には、そんなベタでお決まりの出来事が清涼剤になる。
ちなみに首相答弁によれば昭恵さんは花見をしていたのではなく
桜の木があるレストランで食事会をしただけ。
写真が撮影された時点では、夜間の外出自粛は呼びかけられてはいなかった。
その意味で経済を回すことに貢献していたとも言える。
バランスの見極めは難しいが、疫病が人を殺すように不況も人を殺す。
結果的にどんな行動が正解だったかは未来人にしかわからない。
この文章を書いてから雑誌発売まで約10日。
10日後も軽率と見える誰かの行動を笑う余裕があってほしいということ。
たとえ疫病予防という大義名分があってもだれかの不謹慎を責め立てる社会は息苦しい。
まさに題目の通り、誰の味方でもなくコメントしている感がおもしろかった。
たしかにコロナで暗雲ただよう昨今、いつも通りくだらないとも思えるニュースであれば幸いか。
おもしろかった。